『玄関のある家に、憧れていた』 |新着情報|ウッディライフ

『玄関のある家に、憧れていた』

『玄関のある家に、憧れていた』 | 社長コラム「一期一会」

私が生まれ育ったのは、東京の下町・日本橋人形町。
実は、元・江戸っ子である(笑)。
今はその影も感じない・・・

人形町の実家は、大通りに面した小さな小さな、家というよりも商店。
祖父の代は八百屋。神田の蕎麦屋に長ネギを配達するのが日課だった。
バイクに乗せてもらい、一緒に配達に行ったものだ。
父の代になってパン屋へ。まだコンビニが無い頃でもあり、特製のサンドウィッチは評判を呼び、店は大繁盛した。その恩恵により、大家族が養われていた。

5人兄弟の末っ子として生まれた僕は、兄のお下がりしか着たことがなかった。
敷地は10坪にも満たない。そこに最大8人が身を寄せ合って暮らしていた。
自分のスペースなど、あるはずもない。
家族みんながちゃぶ台を囲み、食事も団らんも、そこでのことだった。
夜になれば押し入れから布団を出し、ちゃぶ台をしまって川の字になって眠る。
何本もの小川が流れる、という感じだ(笑)。

5人の兄弟がいる家庭。決して裕福なわけがない。
でも、不思議と不幸せを感じたことはない。

両親の苦労は、目の前で毎日見ていた。
食パンの袋に小銭を詰めて、近くの信用金庫の裏口へ持って行くのが幼い頃の私の仕事だった。
「これを届けないと大変なことになる」と、誰に教わったわけでもなく、わかっていた。
商いの厳しさを、体で覚えた少年時代だったと思う。

ただ一つ、困ったことがあった。
友人が遊びに来られないのだ。

玄関というものが、我が家には存在しなかった。
店がそのまま玄関であり、シャッターが玄関ドアだった。。。
鍵もない。平和な時代だった。
友達が呼びに来ると、2階から返事をして、狭い階段を走り下りて、店から飛び出して仲間の元へ向かう。
今どきの言い方をすれば「リビング階段」だろうか(笑)。
実際は、店舗階段だが・・・

いつの頃からか、私の中に一つの憧れが芽生えた。
玄関のある家に住みたい。
たったそれだけのことだ。大それた夢でも何でもない。でも私にとっては、本物の憧れだった。

就職活動が始まった頃、自分の好きなことを仕事にしたいと思った。
鉄道が好きだったから、航空会社や鉄道関連の企業を受けた。その傍らで、ふと思い立った。

「住宅の仕事をしてみたい。」

玄関のある家に住みたかったから、というだけの理由だった。
動機として、こんなに単純なものもあるまい(笑)。

ご縁があって、富山の地場の住宅メーカーに入社した。
その後、結婚をして、妻の実家がある岐阜・郡上へ初めて訪れた時のことを、今でも鮮明に覚えている。
庭で、デッキで、バーベキューをした。夕涼みをした。
東京の10坪の家では、想像すらしたことのない暮らしがそこにあった。

物凄く、心地よかった。
「こんな暮らしが、あったのか。」
その瞬間に、何かが変わった気がした。
「家をつくる」仕事をしているつもりだったが、私が本当に届けたいのは、この「心地よさ」なのだと気づいた。

家は、建物ではない。
家族が笑い、子どもが育ち、季節を感じ、歳を重ねていく「人生の舞台」だ。
今、私はそう確信している。
でも、その確信のいちばん最初にあるのは、玄関のない家で育った少年の、ひとつの小さな憧れだったのだと思う。
「玄関のある家に住みたい」という気持ちが、私を住宅の世界へ引き込み、岐阜の地へ連れてきて、今のひだまりほーむという仕事へと繋いでくれた。
点は、繋がるものだ。
そのことを、この歳になってようやく実感している。